チカクログ

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過剰と過密/奇想の系譜展 江戸絵画のミラクルワールド(東京都美術館)

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奇想の系譜展 江戸絵画のミラクルワールド

辻惟雄『奇想の系譜』(1970)を元にした「奇想の系譜ー江戸絵画のミラクルワールド」展。

『奇想の系譜』で紹介された6名の画家に加え、白隠慧鶴、鈴木其一の2名を加えた計8名の大変に豪華な展覧会です。

 

 

展覧会に行く前に、『奇想の系譜』を数年ぶりに読み返しみました。

 

奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)

奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)

 

 

とにかく作品から受ける情報量が多いので、可能であれば本書を読んでからの鑑賞を強くおすすめします。

 

 

展覧会の全体を見たざっくりとした印象は、若冲蕭白は線の人、芦雪は量感の人、基一は色の人、又兵衛と山雪は描写の人。慧鶴は爆発している。

 

以下、展覧会構成に従って感想を綴ります。

 

 

 

1.幻想の博物誌 伊藤若冲1716-1800

鶏の人、伊東若冲

実際に庭で放し飼いにしていたという鶏はもとより、他の動物たちも基本的には非常に写実的でリアルっぽい。けれど、その動物の配置された空間や配置そのものはとても幾何的。《白梅錦鶏図》の鶏の羽根の細かさや写実性と、それが止まっている白梅の幹の平面的で幾何的な処理のなどがわかりやすい例だと思います。

で、そのデザイン性が若冲の今日的な人気にも繋がっている、のでしょうね。

 

若冲は何度か鑑賞したことがあるけど、これだけまとまった作品を見たのは今回が初めて。その中で印象に残ったのは、若冲の線の伸びやかなリズム感。若冲の線は基本的に迷いなく伸びやかだし、画面構成もリズミカル。

例えば《鶏図押絵貼屏風》は、12枚の独立した墨絵を屏風に仕立てた物で、1枚1枚に描かれた鶏の線が軽くて気持ちいんだけど、12枚並んだ時のバランスにもリズム感がある。

この伸びやかさ、おおらかさは《蝦蟇河豚相撲図》のユーモラスさに通底しているもので、この後に出てくる蕭白の、皮肉っぽいユーモアと見比べると違いがより分かりやすい。

  

あとは、《雨中の竹図》がよかったです。

展示作品の中ではパッと見の印象が地味な作品なためか、あまり人が集まっていなくてじっくり見れたんですが、雨でけぶるような景色の表現のために薄墨で描かれた竹の葉が、遠目には薄墨の塊にしか見えないんだけど、近くで見ると本当に微妙な濃淡が重ねられていて、一枚一枚の「葉」がきちんと形を保っているという凄まじさ。

その葉の濃淡もリズミカルで、ちょっとパウル・クレーを思い出したりもした。

 

 

 

2.醒めたグロテスク 蕭白

 

「醒めた」っていうのは言いえて妙で、ウネウネと偏執的に細かく動く曲線と、がさついて直線的(『奇想の系譜』では「キュビズム」的と表現されるような)で蕭白の描く人物や世界は、どこか皮肉っぽさがある。

《群仙図屏風》(東京藝術大学蔵の方)は、右隻の西王母(たぶん)の侍女(妙に鼻の下が長い。こちらを向いて桃?ざくろ?の乗った盆を持っている)と、左隻の仙人(こちらを向いて亀を持っている)が対になるようなポーズをしていて、美女もおっさんも等しく、しかも高貴な存在のはずの仙人が、なんだか間抜けに描かれていて、『奇想の系譜』で紹介される蕭白の偏屈さと、描かれた対象に対する意地悪な視線がオーバーラップしていく。

群仙図屏風 文化遺産オンライン

 

それと若冲は線そのものでリズムを作るけど、蕭白は画面の密度でリズムを作る感じがありました。展示の順路に従って彩色画の方の《群仙図屏風》を鑑賞していくと、左から右に見ていくことになるんですが、右に進むほど激しさをましていく線と描写の密度や過剰さが増していって、その激しさに圧倒される。

 

線の過剰さは、《雪山童子図》の鬼の肉体の描写とかにも顕著だったけど、皮膚の弛みやシワの表現を超えてウネウネ、グズグズとくねって、足にいたっては岩や波の表現と変わらない。

《群仙図屏風》(文化庁の方)の岩棚のような青い着物の襞とか、痙攣するように細かくうねる波と、

紙本著色群仙図〈曽我蕭白筆/三十五歳の款記がある/六曲屏風〉 文化遺産オンライン

 

 

先にリンクを貼ったもう一つの《群仙図屏風》の割れたざくろの皮の先、龍の口の中が同じように波打つ線だったり、鬼、岩、植物etcいろんな「モノ」を描いてはいるんだけど、その線の激しさによって物体そのものの描写から離れていきそうになるところを、ギリギリ崩壊しない境目を攻めいていく感じがスリリングでした。

 

 

 

3.京のエンターテナー 長沢芦雪

芦雪はコーナーに入ってすぐの《白象黒牛図屏風》が印象的でした。

今回、若冲も象を描いた屏風、《象と鯨図屏風》が展示されていたけど、それと比べた時に芦雪の象は、ネバーエンディングストーリーのファルコン的な「理知的」な表情がまずは目に飛び込む。

キャプションでも解説されていましたが、作品全体を通して動物の擬人的な表情が、見ていてとても楽しかったです。

(あと、《白象黒牛図屏風》で黒牛に寄り添う白い子犬が、ゆるキャラとしてポテンシャル高いな、と思ったら、やっぱりグッズとしてたくさん展開されていました。)

 

また、若冲蕭白が線的な描写だとすれば、芦雪は両者よりも量感を捉えた描写、という印象を受けました。

わかりやすいのは《群猿図襖》。

[解説] 大乗寺 円山派デジタルミュージアム

 

おそらく、これが蕭白だったら、猿の毛の一本一本を、強迫神経症的に細かく描写するし、若冲も細かく毛を描き込むのだと思うのですが、芦雪はぼかした墨の濃淡だけで、猿の毛の柔らかさとか、生き物としての重量感、存在感を表現できる。

その一方で、《猿猴弄柿図》では細くて繊細な線で、柔らかい毛並みが見事に表現されている。

《龍図襖》で描かれた龍が長い体(といっていいのか…)をひねる感じの描写にも、《群猿図襖》と同じような量感を感じました。

で、それは師匠の応挙が独自に研究して完成させたという「付立」(輪郭線を取らずに、墨をぼかした濃淡で表現する)を、それはもう見事に習得していたということなんでしょうね。

ただ《山姥図》の足元とか、同じ画面の中でもスコーンとフラットに抜けるところがあって、『奇想の系譜』で芦雪の目を怪我した伝承と関連してを「画面空間に、側面性の奇妙に欠如したものが多い」(文庫版197p)と評されているところなのかなーと考えたりしました。

 

 

 

4.執念のドラマ 岩佐又兵衛

『奇想の系譜』でも大きく取り上げられていた《山中常盤物語絵巻》巻四、五。 

(所蔵館の動画があった。ありがとうMOA美術館!)

www.youtube.com

 

『奇想の系譜』の中で浄瑠璃との関連について述べられていましたが、詳細かつ装飾的に描かれた場面(絵)と、語り(文字)が交互に展開されていきます。

それが金と銀の雲のような靄がかった空間で繋がれていて、語りと場面が時空を飛び越えてオーバーラップするような不思議な瞬間が鑑賞中に度々ありました。

 

だがしかし。不勉強で恥ずかしいですが、私はくずし字がほとんど読めなかったので、それが読めたらもっと没入できたのだろうなぁ。

例えるなら、講談師の語りを聞いているうちに物語の世界に没入していくんだけど、講談師の語っている言葉が日本語っぽい謎言語なので、分かるようで分からない、薄皮一枚隔てた世界の音を聞いているような感じでした。

 

岩佐又兵衛は、福井から江戸に呼ばれたそうですが、確かに、これはわざわざ呼びたくなるよな、という描写のうまさでした。

殺された女の体から、時間の経過とともに血の気が引いていく様。盗賊たちの粗野な表情。屋敷の人々の働く様子。そうした描写は丹念で、リアルです。

その筆致にささえられて、登場人物の大仰な身のこなしや、過剰な装飾性が、うねるような過密なエネルギーになってこちらに迫ってくるようでした。

 

巻物という形式上、どうしても平置きになるので、作品に覆いかぶさるように人が集まって、おそらく今回の展示作品の中で一番鑑賞しにくい作品です。

が、頑張って粘って並んで、なるべく前の方で鑑賞することをおすすめしたい。

 

 

  

5. 狩野派きっての知性派 狩野山雪

漢学に通じていて、中国の故事にも詳しく、儒学者たちと交流の深かったという山雪。 

そういう先入観も込みかもしれませんが、梅の木の幹や岩、山を描いた線は、蕭白の描く岩のように幾何学的な趣きを見せるんだけど、蕭白のような爆発的な勢いではなく、筆の入りから終わりまで、かっちり、きっちり計算尽くで描いている。ように見えました。

『奇想の系譜』では、山雪の構図の幾何学性について述べられていましたが、それを意識すると、「あ、ここ四角、ここ三角」と発見できて面白いです。

 

「かっちり、きっちり」は《武家相撲絵巻》でも現れていて、又兵衛の絵巻における文字が語りなら《武家相撲絵巻》の文字は「解説」。

題材自体の影響が大きいとは思いますが、その違いも面白い。

 

あと、『奇想の系譜』では《寒山拾得図》のような、特殊なフォルムに対する偏執を中心に論じられていましたが(展示替で鑑賞が叶わなかったのは大変残念)、《韃靼人狩猟・打毬図屏風》の、誰が、何をしているのか、いちいち全部描かれているパンフォーカス的な描写の生真面目さも印象的でした。

 

 

 

6.奇想の起爆剤 白隠慧鶴

展示解説によると、若冲蕭白・芦雪に影響を与えたそう。

なんと表現すれば良いのしょうか…。

実際にどう描いていたかは分かりませんが、アクションペインティング的というか、即興性を感じる作品が多かった。

 

あと漫画っぽい。

《達磨図》(萬壽寺蔵の方)とか《蛤蜊観音図》とか、現代の作家の作品だよ、とか言われても信じてしまいそう。

 

このへんで私はだいぶ疲れてしまい、ここ以降、若干記憶が曖昧なので、トンチンカンな感想かもしれないのですが…。

他の画家たちが平面の絹本や紙の上に画の世界を構築しようとしているのに対して、白隠の作品には紙は紙、線は線、描かれているモノはあくまでも描かれているモノであるという、物質性を感じて、それが即興性や漫画っぽさともつながるのかな、と思ったり。

 

《すたすた坊主図》が前期のみの展示で鑑賞できなかったのがとても残念。

 

 

 

7.江戸琳派の鬼才 鈴木其一

酒井抱一が開いた江戸狩野を、さらに洗練された鈴木其一。

他の画家の作品にも強烈な色彩の作品はあったのですが、それらよりも色彩の印象が一番残ったのが鈴木其一。

《百鳥百獣図》のぬっとりとした描写と、アクセントのように現れるぱっきりとした色。

《夏秋渓流図屏風》は、金地が明るく輝いていたんですが、木の幹の茶、植物の緑、流水の青と、金の上に乗っている色が全くその輝きに負けていない。

其一の作品を離れて見ると、赤、青、黄、緑といった強い色が目に飛び込むんですが、それらの配置が拮抗していて破綻がなく、すごくかっこよかった。

 

一方で、バキッとした色とは対照的な淡い色彩で描かれた《貝図》もとても良かったです。其一に対して、「洗練」というワードが出てくることが理解できる作品だと思います。

二枚貝の立体的でリアルで立体的な描写に対して、貝に添えられた梅(?)の実はちょっとフラットな描写。

その一方で白・黒+ちょっとセピアっぽい、モノトーンの色彩の二枚貝。それに対する梅の柔らかな色彩(熟しかけた梅の実の淡い紅色から黄色のグラデーションや青梅の薄緑と梅の葉の落ち着いて深い緑)。

とにかく色使いに長けた画家だなと見入ってしまいました。

 

 

 

8.幕末浮世絵七変化 歌川国芳

国芳は、確か一昨年、府中市美術館で『歌川国芳 21世紀の絵画力』を鑑賞していたこともあり、「あ、これ見たことあるやつだなー」と最後の最後に油断した状態で鑑賞していました。 

が、その油断した状態でも《鬼若丸の鯉退治》には目が止まって、赤、黒、水色の三色が悪夢的に渦巻く画面と、なんの感情も読めない巨大な鯉の異様さは、やっぱり迫力がありました。

 

あと《一ツ家》。「浅茅ヶ原の鬼婆」の伝説を描いた作品です。

横3m、縦2mを超える大きな作品。そしてなんでこんな禍々しい場面を絵馬にしたのか。 

一夜の宿を求める旅人を寝ている隙に殺害して金品を奪っていた鬼婆。一緒に住む娘はそのことに心を痛め、自分が身代わりになることで止めようとしている場面だそうです。

冷徹さと狂気に満ちた鬼婆とそれにすがりつく娘。その後ろで、半跏思惟のポーズで寝ている美少年は、鬼婆を改心させるために姿を変えた菩薩。

娘と美少年の姿は、浮世絵的な平面的な処理なのですが、鬼婆は太い輪郭線の中に西洋絵画的な立体感のある表現で描かれていて、余計にその存在の醜さが際立つようでした。

 

 

 

それぞれの画家だけで単独の企画が十分成立してしまうほど、豪華なラインナップの本展。

個々の画家たちを同時代の他の作家との比較しながら、もっとじっくり見たい気持ちにもさせられましたが、「奇想」の画家たちを同時に鑑賞することによる発見もありました。

 

最終日、激混みでしょうが、チャンスがあればぜひ足を運んでいただきたい展覧会です。

 

 

memo

訪問日:2019/03/31(sun)

訪問時間:10:00

混雑具合:入館は並ばずにできる。展示室までは10分待ち案内の行列

https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_kisounokeifu.html